僕は、
本名:皆川紀久雄(オイ)
昭和24年2月11日、新潟で誕生
( Still alive )
音楽家。
マリとは38年間一緒に暮らす。
3年程前に妻マリを連れ新潟の岩室温泉に帰郷。
Mali's Land の管理人
Oi & Mali & Sub
マリと僕、そしてサブ
マリとは新宿西口の京王デパート屋上ビアガーデンで出会いました。
僕はそのビアガーデンの専属バンドのメンバー、マリはお客を楽しませるためにお立ち台で踊るダンサーとして出会いました。
当時そういうダンサーの事を「ゴーゴーガール」と呼んでいました。超ミニスカートで髪を振り腰を振りお客を楽しませる「go go
girls」の一人でした。
そういう仕事のイメージと楽屋で一緒になって話をする時のマリのおとなしくて品のある感じの
ギャップが大きくてすごく興味をひかれました。
その後付き合い始め数年後には渋谷の広尾のアパートで一緒に住み始めました。
マリの事をいろいろ知り、特に本名の「副島、ソエジマ」というのが気になり尋ねるとやはり血筋はかなりのものでした。
詳しくは語りませんが「世が世なら‥」という位の結構なものです。
そしてふたりの楽しくて幸せな時が始まりました。
マリが20歳くらいの頃でした。
Sub-サブ、とは新潟の寺泊という港町へ遊びに行った帰りの山道で出会いました。
車から道の脇の溝で何か動いたのに気づき、降りて見に行ったら、なんと子犬が男兄弟3匹で捨てられていました。
何かを感じて3匹とも拾ってきました。そして何も深く考えずに東京まで連れて帰りました。
1匹はマリのお母さんが引き取ってくれて「ドン」と名付け、もう1匹の「クマ」は僕らの住んでたアパートのご近所さんが欲しいというので連れていっ てもらいました。そして残っ たのが「サブ」ちゃんです。 ここから我が「ファミリー」の始まりでした。
そしてサブはマリの深い愛情に包まれて健やかに、そして自由に育っていきました。
しかしファミリー結成のおよそ8年後、僕のわがままで、サブには不幸せな時をむかえさせてしまいました。というのは僕がニューヨークに住み着き、そ のためたとえ半年間でもマリがやはりニューヨークに来て、サブはマリのお母さんに預けられたのです。
サブにしてみたら、間違いなく見捨てられたと思ったでしょう。
マリは
ニューヨー
クに来てからもずーっとその事が気になり不安で仕方なかったのを良く覚えています。
僕は半年くらいだから大丈夫と、とんでもない軽はずみで思いやりに欠ける判断をしていました。そしてマリが東京に帰り、やはり心配した通りサブの心が
もう離れてしまって前の関係には戻れないと、本当に自分を責めながら電話で連絡して来ました。
その後僕も約5年程のニューヨーク生活から東京に戻りました。
そのきっかけはマリのお母さんの余命が半年だと知らせを受けた事でした。
食道がんに冒されていたのです。マリはこの時はお母さんの所で一緒に住んでいました。
5年ぶりのサブとの再会。ドンも一緒でした。サブは僕を2、3分ほども見つめ続けその後どうやら思い出したようでした。尻尾をほんの2回ほど振り近
づいてきて匂いを嗅ぎまわって何とも不思議そうな顔をしたのをはっきり覚えています。
この後もまた一緒に暮らすのですが、マリの言った通り、彼の心は前の様には戻りませんでした。 そしてこの頃がマリの一番つらい時でした。
この10ヶ月後にお母さんが58歳で亡くなり(なんとマリも同じ58歳でなくなりました)、その1年後サブも14歳で亡くなりました。
さらにドンがサブの逝った半年後、後を追うように亡くなったのです。
傷心しきったマリを見るのがつらい時期でした。
また二人だけの生活にもどり、板橋で10数年暮らしたあと、2009年2月の末日、僕の実家のある新潟岩室温泉に二人で引っ越して来たのです。
この時マリはひどい精神障害になっていました。
新潟の病院で入院治療をしなければいけないほどでした。
この頃が僕には一番つらい時でしたが、マリの回復力はすさまじく(ドクターが驚いたくらい)2ヶ月で退院できました。
この時が僕が神様仏様に心から感謝した初めてのような気がします。
東京で生ま
れ東京で育っ
たマリ。
でも彼女はのんびりとした田
舎の環境や人々の感じがとても気に入り、大好きな温泉に喜び、さらにすぐ近くの「ホテル大橋」でのパートの仕事をみつけ、友
達もでき、また以前の明るいマリに戻りました。マリのパワーを感じさせられました。
その後亡くなるまでの3年間の新潟での生活は、とても幸せだったと信じています。
マリ、おつかれさまでした。ゆっくりと休んでね。
法名は、釋浄孝(シャクジョウコウ)です。